本名の強制は本当に顔の見える交流なのか

引き続き、Facebookの話題で失礼します。
ここまでこのBLOGではFacebookについて2つの記事を上げました。

Facebook春のBAN祭り
Facebookがやってしまった最悪の対応

この2つの記事は矛盾しているように見えるかもしれませんが、それぞれ別の論点を記したものです。
後者は自社ポリシーに反した行為が行われたときの対応について論じており、前者はそもそもそのポリシーが妥当なのかという論点です。

後者については本名を強制している割には簡単な自己申告だけでアカウントを復活させてしまった問題点を記しましたが、記事を書いたあとに確認したところ、人によっては
Facebookの垢BANから再開するには、身分証明書のスキャン画像が必要です
という対応をとっていたようです。これはダブルスタンダードの極みです。ある人には自己申告、ある人には公的書類とこのBLOGで指摘した「別の人で違う対応」を取ってしまったことになります。
ここまではサポート対応の問題点です。

ここで考えなければならないのは、そもそもここまでして本名を強制する意味があるのかどうか、ということです。それを考察したのが前者の記事です。繰り返しになりますが、顔が見える交流というのは「本名を使っている」こととイコールではありません。いまの日本にはハンドルのほうが有名で、本名がまったく知られていない人がたくさんいます。そうした人たちにとってハンドルは、もはや芸能人の芸名と一緒です。接する人たちにとっても本名では親しみが沸きようもありません。おそらく日本だけではなく、諸外国にもこうした事例はあることでしょう。Facebookはそれをスルーしてまでなぜ本名を強制するのでしょうか。私は本名強制の裏に単なるビジネス的メリット、それもFacebookにとってのみのメリットが透けて見えてならないのです。おそらくいまの日本でそうしたビジネスが見えているものをプライベートで使おうという人は少ない(それが諸外国からの孤立化を呼んでいるという話も出そうですがそれは本題ではないので割愛します)ので、クーポンサイト的に使う人は現れるかもしれませんが、SNSとしてFacebookを使う人は残念ながら限られてしまうでしょう。

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